てんかすの歌メモ『永遠のあくる日』

こんにちは!!!!てんかすです!!!

Ado さんの『永遠のあくる日』という曲を歌ったので、その時に歌詞ごとにこう歌おうとか、なぜそう歌うかなどを書きなぐったメモを、原文ママで載せます。

MIXの依頼の際、このお歌メモフォルダに同封したところ『記事にしてみては?』というアドバイスをいただいたので本当にしちゃいました。

考察 と言えるようなものではないのですが、動画の演出などに気づいてくれたらいいなという気持ちです!


※個人の感じた物語であり、誰もが共感するような内容ではありません
※原曲をつくった人たちの意図を書いているわけではありません



原曲『永遠のあくる日』⬇️
てんかすの歌ってみた動画⬇️

洗う雨は虹の予告編だ
初っ端からギラギラとの繋がりを感じた。
洗う雨=ギラギラの強い酸性雨のこと?
蛍光色の痣=劣等感や心の傷?

自分の原動力で、かさぶたがわりのスパンコールでもあるかもしれない

ギラギラちゃんは自分を苦しめるはずの劣等感や傷すら逆に装飾品にして、抱きしめているけど、痣は触ると痛い=その痛みを噛み締めている?痛みと引き換えに輝いている?
コンプレックスすらも飾りにしているように見せてる。劣等感に潰されそうに見える。
酸性雨が意味するものを見つけられていないけど、劣等感からの悲しみや苦しみなのかもしれない。それが全て嫌になるような気持ちなのをわたしは知っている 

全て嫌になる=涙が何もかも洗い流す=酸性雨


例えば嘔吐のときは胃酸で喉が焼けるように痛くなるから、泣くほど心が痛い状態をあらわしてる?洗い流す前=まだその涙は流れていない。

歯を食いしばって泣かないようにしているかも

それを火を噴いて(世界への怒り?)なんとか遠ざけ、自分を保ってる

でも、雨の後は虹が出るみたいに、泣いたらスッキリできるし気持ちの整理が着く。
なにより自分の感情をさらけ出して『ありのま』でいられる。だから、洗う雨(泣くこと)は悪いことばかりでないから、泣きたい時は泣いてもいい

そういう励ましの意味を感じたので、動画では『醜いぼくらのラブソング作ろう』の場面で、曇り空から徐々に虹が架かる演出にする



まるで映画のエンドロールだ あいしてる なんて 「さよなら」みたいに云わないでよね もう あいしてる なんていらない
少し怒っている感じの声。ただし、ただの怒りにならないようにする。言わないでよね、というせりふの可愛らしさもある語尾なので
愛してるって優しいステキな言葉なのにそれがさよならに聞こえる

映画のエンドロール=最後にふたりが結ばれる映画は多い。
映画はそこで終わるけど、現実は終わらない。主人公は、映画を観ている人達が感じるような寂しさをエンドロールと表現している
ただ、死の間際に 愛を確かめるような映画だってあるかもしれない。この曲はこっちのような気がする。あいしてるなんて、幸せな言葉・ハッピーエンドの言葉のくせに。

動画の文字は基本くすんだ青だが、 さよなら だけこの歌では重く悲しい言葉だから、際立たせるために黒い文字にした

「さよなら」とカギカッコで括られているのも、セリフじみているから本当に言われちゃったんじゃないかな……

君だけがいなくて
「君だけが」は遠くに響かせるような歌い方
「いなくて」でマイクの近くで独り言のように歌いたい

いないんだもん。遠くに呼びかける意味も、誰かに聞こえるように話しかける意味もない。ギラギラちゃん以外はみんないるのに、ギラギラちゃんだけがいない
用があるのは君なのに

永遠のあくる日みたい

タイトル回収。永遠とは終わらないものなのに、『あくる日』は次の日という意味。

1……おとぎ話のエンディングとして、『2人はいつまでも幸せに暮らしました』というものがある。そこで物語は終わるのだから、彼らは永遠に幸せに過ごすことになる。だが、その永遠の続きになってしまったのがこの曲の現在かもしれない。
2……例えば結婚式で神父に永遠の愛を誓うか問われる場面がある。
だから、もしかしたら

『ギラギラちゃんとあくるちゃんが一緒にいられる、永遠に続いて欲しかった日々』

なのかもしれないし、永遠を誓ったはずの愛が「君だけがいない」からまるで終わってしまったかのような喪失感かもしれない。

あいしてるなんて 正しいことばっか云わないでくれ

切ない、辛そうな声。

朝ドラかなにかのセリフに 正しいけど冷たい っていうのがあって、それみたいな感じかもと思った。愛してるというのも実際思っていただろうし正しいけど、1番のようにさよならに聞こえたりする。

ギラギラでは最後に「ギラついてこう」という歌詞があって、ギラギラちゃんはその後自分らしく、でも自分を偽って生きているのかと思った。コンプレックスをギラギラの装飾で潰して無理やり輝いてる。世界のためになんか生きてないけど、ありのままでもいられない。自分なりの武装で強くなっているけどそれはあくまで武装で、完全なるギラギラちゃんそのものではない?ギラギラちゃんはギラギラちゃんなりの輝き方をしてるから自分らしくはあるんだけど……難しい話だ

あいしてるなんて〜の部分にコーラス(すごく衝動的)1番になかったから原曲では変化をつけようとしていたのか?とか変かなとも思ったけど、変化に関してはコーラスの音を1番と全然違うものに変えたことでわたしの耳には違和感は残らなかった。
1番のコーラスの美しさは、エンドロールの美しさなんじゃないかな 2番はコーラスの音の映り方が1番と全く逆。

後付だけど、1番に対する自分なりの解釈でさよならと正しいの対比のような気もした。

さよならはあくるちゃんにとっては正しくないことなんじゃないかなって思った。
正しくないっていうか、訪れて欲しくない別れ

聞き飽きたでしょう?ありふれた言葉
「でしょ」の部分をセリフのように歌う。
でしょ?と言っているような雰囲気。
あくるちゃんは「聞き飽きたでしょ?」と問うように感じた。こんなありふれた言葉もう聞き飽きたでしょ?

ありふれているけど、大好きな人からの愛してるほど嬉しいものはない とおもう

だからロックバンドもアイドル歌手もみんな愛してるって歌う それが軽く歌われたものだとしても、逆に重すぎるとしても、どれも彼らの口から出た本物の言葉。本物じゃなくても、書こうとした・書いた言葉、さらに言うなら頭の中にあった言葉
ギラギラの歌詞では「愛されないくらいなんだ」という歌詞があり、ギラギラちゃんは他人に向けられた愛してるをたくさん聞いてきたんだと思った。聞き飽きたでしょ?
あの世界観ではギラギラちゃんはあまり愛されていなかったと思う。だから、愛なんてものをひとつも自分へのものと思えなくなってしまったんだろうと感じた。突っぱねるような言葉だけど、そこから寂しさも感じた。でもあくるちゃんは愛してたよ

「愛してるだったんだ」直前の「愛してる」はあくるちゃんの心からの愛してるでいてほしい。聞き飽きたけど、強がって恨んでるけど、言わずにいられない言葉

MVでも泣きながら割れた写真にキスをしているし、そこで「使い道のない口付け」は意味を持った。
その涙がギラギラちゃんの写真の頬につたって、ギラギラちゃんも泣いてるみたいでここホントまじでむり(限界化)

醜いぼくらの ラブソング作ろう
悲しさを感じない、柔らかい声で歌う。

ギラギラちゃんへの心からの愛を歌っている気がするから

ギラギラには「この世にあるラブソングはどれひとつ私向けなんかじゃないでしょう」という歌詞があり、ギラギラちゃんは少なくとも自分のことを醜いと思っている。

ギラギラやこの曲のMVの世界観を見る限り、ギラギラちゃんが顔を覗き込まれたりあくるちゃんが怪我をしたり槍を向けられているのを見る限り、醜いものやそれを愛するものはあまりよく思われない・消されてしまうのかもしれない。だから、そんな醜いもののためのラブソングなんてない。

それは現実世界でも同じ。

ブスとかデブとか、そういう言葉があるから。インターネットがある時代、人の見た目を審査員気取りで貶したりからかう人が目につくようになった それが原因で垢消しする人とか、容姿の悪口だけでないにしろ死んじゃう人もいる。から、これはある意味ノンフィクションなんじゃないかな。そういう部分もある気がするって少し思った この部分は歌の外の話だから歌にはしないけど……

実際MVは現代とかけ離れたような世界観なのに、「ロックバンド」とか「アイドル歌手」とか、愛してるを歌う人が現代っぽかった。
というより、醜かったら誰も聞かないから作らないのかも。

ないなら作ろうよ、というのがあくるちゃん

世間のためのラブソングじゃなくて、ギラギラちゃんや醜い自分たちのためのラブソング
自分が『聞き飽きたでしょ』と言ったあいしてるを、このラブソングでギラギラちゃんのために歌おうとしてる 

ラブソング作ろう ということで、ノートに歌詞を書いていくように、動画の文字はフォントでなくて全部手書き。

あくるちゃんがひとつひとつ書いているようなイメージで

どうして云わずにいられないんだろう おんなじ言葉繰り返している

疑問形だけどあんまり疑問形っぽさを意識しないで綺麗な声にしたい。
今まで散々繰り返してる「愛してる」への言葉 

同じ言葉なのに、繰り返しなのに、さよならみたいなのに、正しいのに、聞き飽きたのに、ありふれてるのに、それでも言わずにおれない


まるで映画のエンドロールだったな 最後の君の笑顔は
〜エンドロールだ まで、1番と同じような勢い▶︎ったな は、1人で確かめるような声にしたい
まるで映画のエンドロールだ、と言い放つ相手はもういない 「だったな」と思い出している印象を受けた

最後の笑顔は、ギラギラちゃんの笑顔かも。

映画のエンドロールみたいという表現が1番サビと一致することから、最後に「愛してる」とあくるちゃんに言ったのかもしれない。

ギラギラちゃんはギラギラのラスサビで人形を叩き壊している。あの世界観的に、そのせいでギラギラちゃんは処刑?されるのかもしれない。もしくは、二度とあくるちゃんと会えない状況になっている?ギラギラちゃんの写真を持っているだけであくるちゃんがあんな目に遭うんだから、罪人の扱いを受けていそう。ギラギラちゃんはなんで笑ったんだろう あくるちゃんに見せる最後の顔だからかな あくるちゃんには醜いとか気にせずありのままの自分の笑顔を見せられたんじゃないかな。だからあくるちゃんはギラギラちゃん好きなんじゃないかな

動画では、映写機のような映像を入れることで 映画のエンドロールを見ているときの「終わりなんだな」という思いだったり「あくまで映画の中である」というイメージだったり 今まで現実のように動いていたシーンたちは全てあくるちゃんの回想。


それでもぼくらはあいしてる
そのまんま もしかして 愛してるを何回も言うのは、それを禁じようとする周囲への抵抗だろうか?
MVではあくるちゃんが首に刃を突きつけられているから、人形を壊した醜いギラギラちゃんを愛しているあくるちゃんも罪人になって、処刑されるのかもしれない。
ぼくら、ということはギラギラちゃんを好きなのはあくるちゃんだけではない。ここで言う好きは恋に限定しない 
それでも からはふたつ意味を感じた。
ギラギラちゃんが劣等感で武装して、ありのままじゃなくなっても どんな君になっても という意味のそれでもと、
誰がなんと言おうと というそれでも。
最後も愛してるを反芻してる 最初はそれでもぼくらは、に繋がる愛してる、2回目の悲しそうなメロディになる愛してるは それでも、が強調されてるんじゃないかな 3回目、再び明るくなるけど、

もしかしてあくるちゃんはかすかに笑ってた?


原曲の動画では、大人になったあくるちゃんが登場。動画の最初と最後にオレンジ色の光が走ることから、

この歌はあくるちゃんが処刑されるその瞬間に始まった走馬灯・回想であり、曲の終わりの光であくるちゃんは処刑されたのではないか?

と思った。だから、このアイデアは原曲からそのまま持ってきた。原曲動画はとても好きだけど、特にこの一瞬の演出が狂おしいほど好きです。考えを広げてくれるし、切なすぎる……

あいしてる

からは個人的に『さよなら』を感じた。

さよならみたいに言わないでくれと言ったくせに。愛しているからこそ、さよならになってしまうんだろうか。でも、それはギラギラちゃんへのさよならではないようにも感じた。

自分の意思表示、決意のようなもの?

ギラギラちゃんとあくるちゃんはもう二度と会えないかもしれない。だから、さよなら?
ここちょっと言葉にならないや……

動画では、「あいしてる」の模試は1番サビの「さよなら」と同じ色にした。

「おっ」となってくれる人がいると嬉しい。

あいしてる の「る」で文字が滲んでいるのは、2番サビ後の泣いているあくるちゃんを表現したかったから。
涙のせいでペンのインクが滲んでるような感じ。

その後、原曲と同じ演出。オレンジの光。


以上です!

「私もそう思ってた!」みたいな人がいると嬉しいなあ〜。
これを踏まえて、ぜひ歌ってみたの方も聴いてみてくださいね。 

てんかす

歌ってみたを投稿する一般的なうさぎさん。
下の画像では口にニンニクをねじ込まれている。


てんかすさんち

リンクが多すぎてTwitterに書ききれないのでここにぶち込みます。

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